満潮に乗って
著者:アガサ・クリスティ
訳者:恩地三保子
解説:中川右介
★★★★★
前日に引き続き、魅力的な女性が登場する作品。
気が強くて負けず嫌いなリン・マーチモント。
か弱くて無垢な心を持った女性ロザリーン・クロード。
2人とも非常に個性のある魅力的な女性だ。
私はリンのほうに、より好意が持てる。
戦地から田舎に戻ってきたばかりのリン・マーチモント。戦争が終わって何もかもが高価になる中、日々の食事の準備にさえも心を悩ませる母を憐れに思いながらも、裕福だった叔父の遺産を狙おうとする母や親族に嫌悪感を抱く。婚約者であるローリーに対しても...。
リンの婚約者であるローリーは戦争中は出征せず、ずっと田舎にとどまっていた。戦地での日々を経験したリンからみれば、彼は少々退屈に見えてしまう。
彼と結婚し退屈な一生を送ることに迷いを感じているとき、見るからに危険な香りのする男と出逢った。裕福だった叔父と結婚したばかりの若い未亡人ロザリーンの兄、デイヴィッド。叔父の遺産を奪った相手になるわけだ。
最初は敵対心を抱くが、徐々にデイヴィッドに惹かれていくリン。それに気付き、ローリーは焦り始める。
デイヴィッドとローリー、リンとロザリーン。
この4人の恋物語としても非常に面白い作品だが、もちろんミステリとしても読み応えのある一冊でもある。
このミステリでは、3つの死体が出てくる。
果たして殺人なのか、自殺なのか、はたまた事故死なのか..。それすらよくわからない。
最後の最後に1人の人間が本性をあらわす。それが少し突拍子ないと言えなくもないのが少々難点だが、驚かされることには間違いはない。
このミステリのポイントも「動機」。
一見単純な犯行に見えるけれど、絡まった糸のように様々な人間の思惑が入り組んで、なかなかほどけてはくれない。
この物語で一番印象に残ったのは、戦争についてのリンの言葉だった。
***以下引用***
子供のころからいつも彼女は、はっきりした頭脳の持主で、ものごとを明快に裁ける人間だった。自分の望んでいることと望まないことをつねにはっきりできる人間だった。いままでは、あなたまかせなふらふらした動きかたをただの一度もしたことがないのだ。
そうだ、それなのだ。そのふらふらした動きなのだ!
あなたまかせの、はっきりした目的のない生き方。それが彼女の故郷に帰ってからの毎日だった。
あの戦場の日々への郷愁が波のようにリンの心を襲った。各自の責任がはっきり規定され、生活は一糸みだれぬ計画にしたがってはこばれ、そして個人の裁断などというものが必要とされなかった日々がリンにはなつかしかった。
だが、そう考えてゆくうちに、リンは急にぞっとしてきた。みんなこんなことを考えているのだろうか、心ひそかにみんなが願っているのはこんなことなのだろうか? これがつまり戦争が人々の心に植えつけていったものだろうか?
戦争の本当の怖ろしさは、けっして肉体的なものではなかった。海にかくれた水雷、そらからの爆弾、荒野を走る車にうちこまれるライフル弾のうなり、そんなものは、肉体だけの記憶でしかないのだ。本当に怖ろしいのは、考えることをやめればずっと楽に生きていかれるということを知る、精神の記憶なのだ。
現在のリン・マーチモントは、入隊したときの頭脳明晰な決断力に富んだ娘ではなくなっている。彼女の頭脳は、職場では専門化され、整然と分類された範疇の一つにはめこまれてしまっていた。そしていま、ふたたび自分自身の、そして自分の生活の主人に戻ったリンは、自分の個人的な問題を把握することから顔をそむけているような心のあり方にぎょっとさせられている。
***引用終了***
戦後だけじゃなく、現代でも当てはまりそうな感じがする。マニュアル化された世界に慣れれば慣れるほど、そしてそれに慣れることが早い人ほど、同じことを感じるのかもしれない。
決して「マニュアル」自体を否定するわけではないのだが...。
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